あやちょと乙女が描く愛

昨年末にはじまり好評を博した我らがあやちょ先生の人気連載「乙女の絵画案内」の書籍化が遂に実現されましたね。web連載が無事終了したところで全10回のなかでも個人的に気になった記事についてすこし書き残しておきたいと思います。
わたしは世界史にも美術にも知識も興味も乏しいため作品に絡めた感想なんかは到底書けないんですが、そんなわたしが気になったのが連載第8回(←リンク参照)でした。あやちょ先生は毎回、絵の見方、感想、時代背景、画家の人物像など色々な視点から書かれてますが、この第8回については特に「人」について書かれているように感じました。というのも、いつも記事掲載と同時にブログでも掘り下げて解説しておられるちょさんなので、第8回はたまたまわたし連載を読む前にブログのほうから読んだんですね。書かれていたのは「女性が描く女性像」について。
まずわたしにとってちょさんは、雄っぽい女性というか、強い男性性をすごく自然に持っている人というイメージなんです。所謂ボーイッシュに傾かずごく自然に男な部分を自分のものとしていて、それに矛盾せず飾るように女性性を高めている人。誰しも男の部分と女の部分があると思いますが、ちょさんは男が強いなあと。逆に花音ちゃんなんかは殆ど女しか無くてすごいよね。でそんな「あやちょ抱いて」を巻き起こす雄感が強めなちょさんが他の女の子のことをどういう目で見ているかってわりと謎じゃないですか。だからブログで「女性が描く女性像」について本人の気持ちを書いているのを読んで、それは確かにもやっとするよなあと、でもずいぶんデリケートな部分に突っ込んだのはどうしてだろう?と思ったんです。
それで連載を読むと、画家のルブランとモデルのマリー・アントワネットの関係についての書き方がとても引っ掛かったので、もしかしてと思って軽くググったところアントワネットには女性関係のゴシップがあったようで。恐らくルブランとも噂されていたのだろうなとわたしは思ったのですが、ちょさんも調べたときにそう捉えたんでしょう。そのうえで、連載記事の表現から感じるのは、そう下衆に取り沙汰されるようなことではないと主張したかったのかなと。
少し大袈裟に言えば、同性愛への偏見を払拭したがっているような。でもそれは恐らく同性愛に限らず、男だの女だの、肉体の性別など越えた純粋な愛。潔癖なあやちょにとってとても大切なことで、純粋な愛が性や風評に邪魔されることの無いように。そういうことを作品と併せて伝えたかったんじゃないかなあって感じました。だけど女性が描く女性像という風に結局また性が邪魔するからうまくかたちにならなかったのかも。
このことについてちょさんがどんなこと考えながら書いたのかなって、思ったときにわたしの中で浮かんだのはやはり花音ちゃんでした。ちょさんにとって純粋な愛が真実として自分の中にあって、相手ともわかり合えていたらそれで良さそうなもんなのに、表現者の立場であえて問題提起し文章に起こしたのは、やはり知ってもらわなくちゃいけないものがそこにあるからなんじゃないかなあと。あやちょと花音ちゃんの関係って最早お互いだけの問題ではない、人前に晒され、スマイレージを支えるふたりとしてたくさんの人の信頼と期待のもとにあるわけじゃないですか。好き勝手できないもんなあ。ふたりともすごく真面目だから、きっとちゃんと認めてもらいたいんでしょうね。みんなもう認めてるよおって思うかもしれませんが、あのふたり想像以上に色々ありそうなので…。
以前は何か色々隠したまま、べつにそれでいいでしょって感じだったけど、やっぱり去年からすごく意識が変わったように見えますよね。ずっと今のスマイレージでいるつもりなのか、とかどういう覚悟かってのは具体的にはわからないけど、結構な覚悟を決めていそう。それでちゃんとしようってなったんだろうけど、先日のTOPYELLでの対談とか読んだ感じものすごく探り探りなのがまた面白いなあ。どんだけ真面目なの。
という、そんな感じであやちょ先生の潔癖さとか、静かな強い覚悟なんかも垣間見えた記事でした。毎回まっすぐに美術に関して語っておられる連載のなかでも少し異色な気がします。まあそこは先生も仰っている通り、感じ方はそれぞれなので。これがわたしの読んだ乙女の絵画案内でした。本も楽しみだなあ。