花音ちゃんが書く わたし

花音ちゃんの初作詞曲「わたし」がフルで公開されましたね!とりあえず聞いてすぐの、今の時点での感想というか思ったことを書いておきたいと思います。歌詞は以下。(現時点ではラジオ音源の書き起こしになります。正式な表記の歌詞が公開されたら差し替えますね。)

もしも わたしが 今とは違った
運命を 選んでいたとしたらね
目の前にある景色も違えば
目の前にいる人も違ったはず
 
有名大学に通ってる とか
大手企業に勤めてます とか
言葉にするだけで なんか ちょっと
その姿がカッコよく見えちゃうもの
 
中身なんて 関係無くて
ひとが好きだ とか言うけれど
それは ただの 綺麗事じゃないかな
 
たとえ わたしに 何の肩書も
才能さえも 無いとしても
わたしのこと 見つけ出して
好きになると 言えるかな
 
自信持って はいって言えない
ようなら まだまだ 甘いわね
ほんとのほんとの 部分を もっと
わかってもらわなくちゃだめだわ
 
恥ずかしいし プライドとかあるし
たぶんみんな 言葉には出さないけど
人は誰だって 名乗ったときに
ドヤ顔できるような 肩書きが欲しいの
 
アイドルとか キャビンアテンダントとか
モデルとか 他にもたくさん あるけど
恋人を探したり するときだって
多少はそこに 惹かれてるはず
 
こうゆう言葉 口に出して
言うものでは ないんだけど
肩書きの無い わたしを 想像してみて
 
今のわたしが 違うわたしでも
好きになってくれたかな
中身の部分の魅力に
ちょっとでも 気付いてくれてるかな
 
まっさらな わたしだとしても
好きになるって 言ってほしい
明日からは 肩書が ちょっと
変わってしまう わたしだからね
 
たとえ わたしに 何の肩書きも
才能さえも 無いとしても
わたしのこと 見つけ出して
好きになると 言えるかな
 
まっさらな わたしだとしても
好きになるって 言ってほしい
明日からは 肩書が ちょっと
変わってしまう わたしだからね
 
わたしが 違うわたしでも
わたしのこと 見つけ出して

マジまろすごいまろ。マロテスク、てあのちょさんが言うくらいマロテスク。問い掛けとしての「言えるかな」とか、「まだまだ甘いわね」とかまじまろだし、けっきょく「好きになるって 言ってほしい」って可愛すぎか!

卒業発表直後から、1129を区切りにアイドル人生を終えると各所で宣言してきた花音ちゃん。それを聞いてわたしは、誰よりも歌やダンスに自信があって目立ちたかったエッグ時代から、容姿や技術的な評価を求め続けていたのが、人として愛されたくなったというか愛されてゆく自信を持てたんだなあなんて、嬉しく思ったりしていました。それがこんな風に歌詞として言葉になって、改めて花音ちゃんにとって人として愛されたいということはどういうことなんだろうって考える機会になりました。そんなん考えんでもわかるでしょって人からしたらあれかもしれませんが、わたしはここに書くことで色々考え込んでやっとわかったかなあという感じです。乙女心って複雑だから!

わたしは以前ツブログのコメントに、どんな流れでかは忘れたけど、花音ちゃんがもしハロメンじゃなかったとしてどんな世界にいてもわたしはきっと見つけて好きになっていたと思います、というちょうど「わたし」の答えみたいなことを、書きかけてやっぱり言い切れないなとやめたことがありました。だってハロを選んで受かって続けていない花音はそもそも花音なのかな?と思って。趣味や才能と人柄は直結していると思うし、何かひとつでも欠けたらその人ではないと思うし。
でも「わたし」の歌詞をうけて考えてみると、それってやっぱり、その人を構成するもののなかで才能を重視しているってことなのかなあと思いました。わたしが好きな花音ちゃんの、ハロを選んだ趣味の良さもアイドルを続けてこれた才能も持ったまま、少しタイミングが違ったりしただけで「もしもわたしが 今とは違った 運命を選んでいたとしたら」、やっぱりどこにいても花音は花音なわけで…。

少し前にあった花音ちゃんと大森靖子さんのトークショーで、大森さんからの「この人はわたしのことをわかってくれているという人はいますか?」という質問に、花音ちゃんは親友のなちあこと涼川さんを挙げて、「変わり者と言われてきたわたしより変わってて、理解してくれる」「やなこととかあったら秒で会ってくれる。それぐらいわかってくれる」と答えてました。これを聞いてわたしは花音ちゃんにとって「自分のことをわかってくれる」というのは、「他の人に理解されないことを受け入れてくれる」ことや「つらいときそばにいてくれること」なのかなあって思いました。特に花音ちゃんはめちゃ女の子な性格だし、理解より「共有」、何より「共感」を求めてるんでしょう。
以前にも、花音ちゃんが大好きな曲で聴くと落ち着くと言っていたクリープハイプの「大丈夫」という曲の歌詞をみたときとか、ああこれってすごく花音がしそうなことだしきっとしてほしいことなんだって思いました。あれこれ行動して派手に叱咤激励するとかよりも、こう相手の心に優しく寄り添う感じ。身も心もそばにいてあげる、みたいなのが花音ちゃんの優しさで、花音ちゃんも求めるところなのかなと思います。

そういうことを踏まえて考えたとき、花音ちゃんが好きになってほしい「ほんとのほんとの部分」て、本当に人の核みたいな、もっと心の部分なのかなって思いました。人の核にもそれぞれ、欲望だったり志だったり哲学だったり善悪だったり、色んなタイプがいるでしょうけど花音ちゃんの場合は、やっぱり心なのかもしれません。
わたしたちおたくは、花音ちゃんはこういうものが好きだとかこういうときこういう行動をとる人だとか、花音ちゃんが今まで見せてきたものを情報として「知っている」ことはあっても、心で花音ちゃんのことをわかってるかって言ったらわかれることなんて殆ど無いんだろうなと思います。女性に共感するっていうのは特に(おたくの過半数である)男の人には難しいことでしょうし。
だからこそ、核とかそこまで深い部分までいかなくても、共感は難しくても、もっと心をわかってほしいってことなのかなあって、わたしは「わたし」を解釈しました。ものすごく素直かと思えばあまのじゃくだったり、難しいけど気ままな性格の花音ちゃんだからこそ、わかってほしいって思いは強いでしょう。おたくとしてそれをわかりたいとあれこれ考えるより、昔よりとても素直に自分の気持ちを話してくれるようになった花音ちゃんが、見せてくれる言葉や感情を、こっちが素直に受け止めるだけでいいのかもしれませんね。
でもやっぱり、そういうテーマとかが色々込められた一曲のなかでも、「わたしのこと見つけ出して」が、まろのいちばんの気持ちなんじゃないかなって個人的には思っています。違った運命を選んでいたとしても、肩書きの無いわたしでも、わたしが違うわたしでも。まろのこと見つけ出して、わたしはやっぱり好きになると思います。